原口館
原口館は松前町原口地区にあり、原口館があったであろう場所に、立て看板のようなものがあります。
海岸の風雪で説明文は消え、横にあった、木の標柱も倒れてしまってます。
古城盛衰記に写真がありましたので、参考にしてください。
原口館の二つの館跡
「史蹟の渡島」によると、第一の館跡は原口村のゴモマ「鱒間の岬」と第二の館跡は原口村コモマ野の2つがあり、後に第二の館に移ったのか、同時に存在していたかは定かではありません。どちらも、戦後には残っていたようですが、埋め立てられ位置がわからなくなってしました。
第一の館跡
原口の港より旧国道を北上すると、立て看板がある場所が原口館跡と思われる場所です。訪れた場所は何もない原っぱですが、かつては、土塁や空堀があったそうです。
第二の館跡
場所は特定されておらず、旧国道から40mほどのカタコ山の山麓に空堀の跡があり背後は原口沢の切り立った天然の絶壁の砦になっていたようです。
発掘調査
道南十二館の謎より
平成2年から平成4年にかけて発掘調査が行われ、空濠遺構が2300点に及ぶ、擦文文化の出土品とともに発見され、その空豪も2つの年代だそうです。しかし、原口館が存在していた時代のものは、発見に至らず、防御性の有した集落があったようです。
岡部季澄
館主の岡部氏は「岡部六郎左衛門尉季澄(おかべろくろうさえもんのじょうすえずみ)」といい、武蔵国の出身だそうです。当初は戸井館に拠ってましたがのちにアイヌの圧迫により原口館へ移ったのではないかと、推測されます。
鎌倉幕府末期の14世紀後半から蝦夷地へ和人の移住が始まり、そのうちの一つが戸井で繁栄したと思われます。
大舘の戦いで、相原彦三郎季胤(すえたね)に組した以外は、多くの情報はありません。
地図
御城印
岡部氏は、歴史教科書にも出てくる、小野妹子の子孫の小野篁(たかむら)の末裔、猪俣党の系列。平安時代に武蔵国榛沢郡岡部付近を領有したのが始まりと言われてます。鎌倉末期に渡党として、蝦夷地に渡ったと推測されます。岸和田藩の岡部氏とは出自が分かれます。
訪れた際には、自由にお使いください。利用時にコメント欄に一言入れてもらえば幸いです。