道南十二館と勝山城

 時代は違えど、現在のわれわれには、史跡は同時に存在します。勝山城は後の松前氏の祖である武田信廣が15世紀後半に築いた山城と言われてますが、コシャマインの乱の時には落城しなかった花沢館で戦ったようなので、築城はその後だと思われます。

 夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する、当時としては大規模な館であり、集落全体がお城となってます。

道南十二館

 蝦夷地(後の渡島国、現北海道)渡島半島にあった和人領主層の館の総称。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。(Wikiより)

 十二という数は『新羅之記録』に記されていた、館の数を示すものであり、その他にも、館は存在します。多くは調査されてないか、遺構は見つからないのがほとんどです。コシャマインの乱のときは「花沢館」と「茂別館」以外は陥落したので、当時の館は全て落城したものと思われます。

道南十二館の謎 

 松前藩編纂の「新羅之記録」を中心に、他の関係史料や先行書籍などをもとに「道南十二館」にスポットを当て、和人と北海道の蝦夷人とのかかわりについて「道南十二館」の時代を整理した貴重な本です。2017年に発売されたものですが、既に増刷はされておらず、入手は困難です。只、中古本としては手に入れることができるのですが、発売価格より数倍の値段になってます。図書館ではよく見かけますので、興味ある方は参考にしてください。

自分は何とか内容を確認できる状態となりましたので、これを参考に、この時代の館について現地を訪れ、調べていきたいと思います。

道南十二館の位置図

 wikiにある十二館の推定位置です。史跡として表示されているものもありますが、調査のされてない場所もあります。実際現地に行って、場所を確認してきましたのでシリーズとして取り上げていきたいと思います。

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