道南十二館~上ノ国町~洲崎館~砂館神社

 

 1457(長禄元年)年のコシャマインの戦いで功を上げた武田信廣が、上之国守護蠣崎季繁の養女である安藤政季(あんどうまさすえ)の娘を妻とし、同年築いた館。近くには戦いで落城しなかった、蠣崎季繁の花沢館があります。夷王山の麓に勝山舘を築くまでの拠点として機能しました。

土塁や堀切が残っており当時の様子が伺い見ることができます。平地に近い丘陵上であり、砦の要素はあまりないのですが、天ノ川河口付近には擦文時代の遺跡があり、アイヌの集落があったため、この地に設けたのではないかと推測されます。

砂舘神社

 

 武田信廣が勝山館を築いたため廃されましたが、毘沙門堂なども撤去された後、砂舘神社だけこの地に残りました。北海道最古の神社と言われ、参道に沿う形で多く遺構が発見され、周囲では発掘調査が進められており、2021年7月には「毘沙門天像の懸仏」が発見されてます。

例祭日 9月3日

旧社格 村社

社殿様式 流造

御祭神

須佐之男命(すさのおのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)

由緒

 寛正3年夏、武田信広が洲崎の館に旧称毘沙門天王社(毘沙門堂)を鎮祭し、円増院秀延が別当になった。創立の縁起は、先ず新羅之記録に現れた。本道の社寺のうちで、古文献に誌された最初のものであるが、この社の縁起は、松前諸社のうちもっとも名高く、福山祕府・松前旧事記・東蝦夷夜話・北海随筆等にも誌されている。

 4代季広がこの社に参詣した時、勝山城代崎基広の謀叛が発覚したので、毘沙門天王の示現なりとして、天文18年新堂を造営した。(新羅之記録)慶長9年11月造替(この年正月慶広が国政の墨付をもらった。)寛文4年5月造替(9代高広が、国政の印伝馬の令書をもらって5月に帰藩した)。天和元年造替(この年矩広が将軍に謁し、翌2年国政の朱印をもらって帰国した)。

 元禄16年7月造替安永7年12月社殿焼亡し、北村名主は責を怖れて自殺した。藩主道広はただちに造営に着手し、12月23日仮殿成就、翌々安永9年6月、本殿並びに拝殿成り、御神体を勧請して、遷座祭を執行し、棟札に天皇宝祚無窮玉体平全・征夷大将軍武運永久・源道広武運長久子孫繁昌と誌した。

 文久2年、雪のため拝殿が潰れたので、藩命により、江差奉行が検分し、ただちに工事にかかった。江差で切込みをし、上ノ国から人夫を出して建込をした。5月下旬新社殿落成し、8月20日遷座、江差奉行新井田浦人が代参した。

 上ノ国三社のうち、この社だけが古来から藩費による月次の神楽が行われていたことが、福山祕府近来寺社例部明和9年の条に誌されている。藩主の社参や代参も、上ノ国に落着くと先ず毘沙門天王社に参拝するのを例とした。明治4年神仏分離の際、砂館神社と改称、祭神を須佐之男命に改めた。(北海道神社庁より)

鳥居

一の鳥居

二の鳥居

手水舎

狛犬

御朱印

 勝山館、洲崎館、花沢館の御城印は「勝山館ガイダンス施設」で購入できます砂館神社など上ノ国3社の御朱印は「上ノ国八幡宮」でいただけるようです。

地図

現在値から洲崎館跡へのルート案内

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